但馬

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ケージの前で団らんする鉱員ら(昭和中期、朝来市提供)
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ケージの前で団らんする鉱員ら(昭和中期、朝来市提供)

 職長だった頃から、東大、京大、阪大なんかで鉱山学を学んで配属されてきた新人職員を鍛えました。勉強ばかりしてきて現場を全然知らないからね、一から基本を教えるわけです。

 さく岩機を持たせて穴を刳(く)らせたり、鉱石をトロッコに積ませたり、今週はさく岩の実習、来週は運搬の実習という具合です。肉体労働なんかしたことないから、まあ、音を上げますよ。「お前ら、希望して鉱山会社入ったんやろ。ここからやらないかん」と言い聞かせました。

 一度、夜勤の新人にさく岩の実習をさせていたことがありました。僕は本坑(今の生野銀山観光坑道)の事務所にいたんですが、下から運搬係が「伊藤さん、実習生が井戸に落ちた」と慌てて電話してきた。見に行くと、約10メートル下に落ちているんです。幸いけがはしておらず、はしごを掛けて助けてやりました。「もう今日は帰れ」と言ったら、「いや、最後までやらせてください」と。なかなか根性がある男でね。

 彼は生野で奥さんをもらったんですが、寮の部屋に「あと○日」と結婚までの日にちを毎日書いていた(笑い)。仕事をよくしたし、酒もうまそうに飲んでね。いい男でした。後に佐渡(新潟県佐渡市)の鉱山長までやりましたよ。

 そういう若い学卒の連中を連れて、よく飲み歩きました。昔は生野駅の周りに飲み屋がいっぱいあった。冬なんか、仕事が終わって坑外に出ると「今日は寒いなあ。酒3杯分寒いぞ」と言うんです。「酒1杯分寒いな」とかね。これが合言葉だった。鉱山の風呂から上がって着替えたら、みんなで飲み屋に行って3杯分、酒を飲むんです。みんなツケで給料日払いでした。

 学卒の若い連中とは家族ぐるみで付き合いました。鉱山の運動会なんかもみんなで出場して、プライベートでも喜怒哀楽を分かち合ってね。新人で入ってきた彼らも、やがて生野を出て出世コースに乗っていった。今でもよく「伊藤さんの言葉は標準語に近い」と言われますが、そういった学卒の連中と長く付き合っていたからでしょうね。(聞き手・長谷部崇)

【生野鉱山の従業員数】「明治以降の生野鉱山史」によると、戦後の従業員数のピークは1951年度の1750人(職員182人、鉱員1568人)。その後は漸減し、66年度に千人を割り込むとリストラが加速。閉山した72年度は144人(職員31人、鉱員113人)だった。

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