但馬

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 昭和初期に立雲峡(兵庫県朝来市和田山町竹田)が開発された経緯が、中山頼次氏の日記を基に三男の和郎さんがまとめた著書「但馬竹田物語 昭和戦前史」に詳しく記されている。

 「朝来山の中腹には、雲がかかったように山桜が咲いていて、それと向かい合った城山からの眺めは特によく、なんとも神秘的な光景がするとあって絶好な花見場所。古来から但馬吉野といわれるこの春景色を見んものと、町外からの登山客も年々多くなっていた」(同書より)

 1932(昭和7)年春、竹田地区出身の大阪在住者らでつくる「大阪竹田会」が花見で故郷を訪れることになった際、「山奥の桜群をなるべく間近で見てもらおう」と、人跡未踏のクマザサや雑木の中に約30人の作業員が分け入って森を切り開いた。同会の一行は満開の4月18日に花見に訪れ、会長の松本卯一郎氏が「これを開けば、きっと一大景勝地が世に出ること間違いなし」と激賞したという。

 松本氏は竹田出身者の中でも指折りの成功者。翌日から私費を投じて、毎日30人、40人と作業員を送り込み、自ら指図して奥へ奥へと踏み込んでいったという。同書は「彼等の目にしたものは、重なり合い聳え立つ奇岩奇石、そして、その巨岩を抱くように、あるいは天に登る龍のように、また空を覆わんばかりに、まさに花を競おうとしている数知れない桜の巨木であった」と記している。

 同書によると、この開発の際、岩や桜に名前を付けた。新聞に「但馬の新名勝」と取り上げられるなど「観光宣伝ラッシュ」に沸いたという。「立雲峡」の名は、松本氏が師事した右翼の大物、頭山満の雅号「立雲」から取られた。

 同書は34年4月22日の話として「春日和で日曜日、登山客は朝から引きも切らず…」「余興場の漫才の前には人だかりができ、また、一方の舞台では、やとってきた活動写真屋の楽隊が一日中音楽を演奏するというにぎわい」と書いており、この日の登山客について「ざっと一万三千人」と見積もっている。(長谷部崇)

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