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生野で過ごした少女時代を振り返る若宮正子さん=生野まちづくり工房「井筒屋」
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生野で過ごした少女時代を振り返る若宮正子さん=生野まちづくり工房「井筒屋」

 「世界最高齢プログラマー」と呼ばれる若宮正子さん(83)=神奈川県藤沢市=が、5、6日に兵庫県朝来市を訪れ、母校の生野小(同市生野町口銀谷)と生野中(同町真弓)で講演した。その合間に、生野で過ごした子ども時代の思い出を聞いた。(聞き手・長谷部崇)

 「生野では、山神さん(山神社)近くの社宅に住んでいました。鉱山には病院も購買会もあって、従業員の面倒を会社が全部見てくれるんですね。宝塚歌劇や歌舞伎も来ました。お風呂も共同ですし、社宅は一つの家族みたいなものでした」

 -引っ越してきたころはまだ戦争中だった。

 「小学校の運動場は芋畑になっていましたし、山から木を切ってくる作業ばかりでした。終戦から2年ほどして行事がいろいろできるようになり、運動会はものすごくうれしかった」

 「私たちが小学6年のとき、修学旅行も行けるようになったんです。日帰りですけど、神戸まで。当時神戸に行くというのは大旅行なので、校長先生以下、舞い上がっちゃって(笑)。神戸もほとんど焼け野原だったんですが、港や焼け残ったところを見て回りました。あれは大丸だったかな、デパートが営業していて『中元大売り出し』と書いてあるんですが、戦争中はお中元なんてなかったから、みんな『中元』が読めないんです。『何だろう、これ?』『ナカモトさんかな』とか言って(笑)」

 -戦時中つらかった思い出は?

 「それまでに学童疎開で飢餓体験をしていましたし、東京も夜の空襲で眠れなかった。それに比べると、生野は両親と一緒で、空襲もありませんでしたからね。食べ物には苦労しましたが。『鉱山があるから狙われるんじゃ』という人もいましたが、情報通の人は『捕虜収容所があるから絶対空襲はない』と」

 「猪野々に、かなり大きな捕虜収容所があって、飛行機から見えるように、屋根には『POW(プリズナー・オブ・ウォー)』と書いていたそうです。イギリスやオーストラリアなど、いろんな国の捕虜がいました。まちの中で作業をしていると、子どもが話しかけて、とてもオープンでしたよ。食事でみそ汁を出したら『体力がもたない』と捕虜側から申し入れがあり、食用油を3滴ずつ垂らしたという話も聞きました」

 「戦争が終わると、パラシュートで荷物がたくさん降りてきて、(捕虜たちが)パリッとした服装でまちに現れて。小学校にも来たんです。『ピアノを貸してくれ』と。校長先生も『ピアノくらい構わないだろう』と応じた。自分たちでコンサートでも開いたんでしょう。『お礼に』と、キャンディーやチョコをいっぱい学校に持ってきてくださった。日本人はプライドが高く、恵まれるのは嫌だろうから、ピアノの貸賃として持ってきたんですね」

 -生野で思い出の場所は。

 「やっぱり山神さん。桜が満開のころに開かれるお祭りは、すごくにぎやかだった。戦争が終わった次の年は、山に『三菱生野鉱山山神祭』とネオンが輝いてね。お芝居やサーカスも呼んで、但馬中から人が訪れた。中学の理科の先生が神社の宮司さんだったんですが、お祭りのときは学校をお休みになりました」

 「母親の里は豊岡近郊で、おばは香住に住んでいましたから、小学生のころから1人で列車を乗り継いで行きましたよ。それで鍛えられたのか、大人になって1人で海外に行くのも案外抵抗がないんです(笑)」

【メモ】若宮正子(わかみや・まさこ) 1935(昭和10)年、東京生まれ。小学4年の時、三菱鉱業に勤めていた父親の転勤に伴い、生野へ。中学1年まで3年間、生野鉱山の社宅で暮らした。東京の高校を卒業後、銀行で勤務。定年退職を機にパソコン技術を習得し、2017年、ひな人形を正しい位置に配置するゲームアプリ「hinadan」を開発して話題に。CNNなど世界中のメディアに取り上げられ、今年2月には国連本部でも講演した。

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