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「エチュード ヘ長調 作品10の8」自筆譜(製版用 フリデリク・ショパン、1833年以前、インク、紙 Photo:TheFryderykChopinInstitute)
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「エチュード ヘ長調 作品10の8」自筆譜(製版用 フリデリク・ショパン、1833年以前、インク、紙 Photo:TheFryderykChopinInstitute)
神戸時代の小倉末子さん(神戸女学院大学・津上智実教授提供)
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神戸時代の小倉末子さん(神戸女学院大学・津上智実教授提供)

 茶色に劣化した楽譜に、作者自らが書き込んだメモや音符を消した跡が残る。ポーランド・ワルシャワ市のショパン博物館で、観光客がフリデリク・ショパン(1810~49年)の自筆譜に真剣な表情で見入っていた。創作の苦悩を知ろうとしているかのようだ。学芸員のユリア・スタロステツカさん(26)は「戦火を逃れた貴重な遺産です」と話す。

 原本の曲は清書され、出版社が印刷、発刊。ショパンの名曲は世界へ広がった。当時、楽譜は音楽発信の唯一のメディアだった。

 代表作「軍隊ポロネーズ」もその一つ。日本には明治時代に入ってきた。神戸にも早く伝わったことが、神戸女学院大(西宮市)の記録で分かる。勇姿を鼓舞するような力強い響きで、ポーランド軍をたたえる。神戸で初めて弾いたとされるのが小倉末子さん(91~1944年)だ。

 元大垣藩士の三女。幼い頃から、貿易商を営む神戸の兄夫婦のもとで過ごした。母親代わりの義姉はドイツ人。ピアノに関心を示した小倉さんに手ほどきし、8歳で外国人教師を付けるほど熱心だった。

 神戸は文化輸入の玄関口。欧米の楽団は横浜、神戸、長崎を経由するルートに沿って演奏ツアーを組み、西洋音楽を伝えた。神戸の旧居留地周辺には華やかな音色が響いていた。

 神戸女学院は1875(明治8)年、キリスト教系女学校として神戸市中央区に開校。賛美歌など音楽教育を重視し、94年には東京音楽学校に次いで音楽館を建設した。外国人教師も多く、港町の演奏会を支えるコミュニティーとも密接だった。神戸女学院大学・音楽学部の津上智実教授は「明治、大正期の阪神間は東京以上にピアノ文化が盛んだった」と推定する。

 そんな中で育った小倉さんは1906年に入学し、才能を開花させた。軍隊ポロネーズ、ノクターンなどショパン作品を弾いたことがレッスン記録に残る。日本の音楽は黎明(れいめい)期だったが、津上教授は「小倉さんは女学院時代から暗譜で弾いていた」と評価する。

 卒業後、東京音楽学校を経てベルリンに留学。米国で音楽教師を務めた。帰国後は東京音楽学校講師、教授に就任。ピアニストとしても活躍し、16年には神戸・聚楽館(しゅうらくかん)で女学院OGとしてショパンを披露した。

 戦後、ショパンコンクール受賞の原智恵子さんを迎えた神戸女学院は、明治から西洋音楽を受容し、浸透させていく「配電盤」の役割を果たした。ショパンが広がったルートの一つだ。小倉末子さんはその中心にいた。(津谷治英)

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