三田

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伝承を基に2011年に始まった三田天満神社の節分会の豆まき
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伝承を基に2011年に始まった三田天満神社の節分会の豆まき
有馬温泉の節分会
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有馬温泉の節分会
九鬼家の発祥地とされる九鬼町(尾鷲市提供)
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九鬼家の発祥地とされる九鬼町(尾鷲市提供)
嘉隆が築城した鳥羽(鳥羽市観光課提供)
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嘉隆が築城した鳥羽(鳥羽市観光課提供)
兄弟藩があった綾部(綾部市提供)
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兄弟藩があった綾部(綾部市提供)

 「福は内、鬼も内~」。3日は節分。兵庫県三田市内や近くの有馬温泉で豆をまく時のかけ声は、鬼を「外へ」払うのではなく「内へ」呼び込むというのはよく知られた話。「鬼」の字がつく三田藩主の九鬼家に配慮した言い回しと伝わるが、いつからそうなったかは謎めいている。九鬼家は室町期に三重県の尾鷲市を発祥とし、戦国期に鳥羽市で勢力を広げ、江戸期に三田市へ入ると、京都府綾部市にも兄弟藩があった。さて鬼のルーツをたどれば、豆はどこで内側に向かうのか?。(門田晋一)

 「えっ、うちは普通に『鬼は外』ですよ」

 尾鷲市の文化担当者は、突然の質問に豆鉄砲を食ったように驚きながらも、丁寧に教えてくれた。

 市内には室町期の1346年ごろ、藤原氏が移住して九鬼を名乗ったとされる「九鬼町」がある。「鬼」は修験道や呪術につながる鬼道の修行場を指し、「九」はその修行場が開かれた順番を示すと伝わる。世界遺産で知られる熊野古道の難所「八鬼山」に続く9番目がこの地という。

 豆まきの風習は、室町期に貴族や武士が始めたと言われる。しかし、九鬼家発祥の地で「鬼は内」が生まれた形跡は見られない。

 九鬼家は嘉隆の代で「九鬼水軍」を率いて織田信長、豊臣秀吉に仕え、鳥羽市域を拠点に勢力を広げた。ただ、鳥羽市の文化担当も「『鬼は内』なんて言葉は使いません」ときっぱり。

 嘉隆は関ケ原の戦いで豊臣方に味方して切腹し、徳川方だった次男の守隆が鳥羽藩を治めたが、死後に家督争いが起こる。所領は分割され、五男久隆が三田藩、三男隆季が綾部藩に入った。その綾部市でも、節分は同じく「鬼は外」が一般的という。

 ということは、起源は江戸期の三田藩にしかないのでは。そこで三田ふるさと学習館の堺久仁子館長に聞くと、実は長崎県の平戸藩主だった松浦静山が江戸後期につづった史料があるというのだ。随筆「甲子夜話」。そこに10代三田藩主の隆国から、三田城内での「ユニークな豆まき」を聞いたとする記述があった。

 世と異なるは、鬼は内、福は内、富は内といふ

 実際に読むと、恵方に向かって座る主人に年男が前述のように言って豆を打ち付け、続けて「鬼は内、福は内、鬼は内」と唱えて豆をまく-と記す。理由は定かでないが、江戸期に豆まきが年中行事として広がる中で九鬼家への謙譲的な言い回しが広がったのかもしれない。

 今でも「鬼は内」は三田天満神社などが毎年の節分祭で受け継ぐほか、藩領だった有馬温泉でも「お化け」などに扮する若者がイベントで豆をまく際は「鬼は外」を禁句としている。

 それでも三田市史によると、市内では近代まで豆まきの風習がなかった地域が多いとも。その理由をこう記す。「九鬼氏の所領で(略)遠慮したことによるものと思われる」

 やっぱり殿さまの権力は絶対的だったということか。

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