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実物大模型の前で「紫電改はわずか400機しか造られなかったのに有名になった」と語る上谷昭夫さん=加西市鶉野町(撮影・笠原次郎)
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実物大模型の前で「紫電改はわずか400機しか造られなかったのに有名になった」と語る上谷昭夫さん=加西市鶉野町(撮影・笠原次郎)
川西航空機が造った紫電改の試作機
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川西航空機が造った紫電改の試作機

 深緑色の機体が強い日差しに映える。8月の日曜、旧日本海軍の鶉野飛行場跡(兵庫県加西市鶉野町)にある備蓄倉庫前では、戦闘機「紫電改」の実物大模型が観光客らの視線を集めていた。そこにガイド役として熱っぽく語る、市民団体「鶉野平和祈念の碑苑保存会」の理事、上谷昭夫さん(80)=同県高砂市=の姿があった。

 上下水道工事の仕事の傍ら戦史研究家として、1993年ごろから同飛行場跡の歴史を調べ、その存在を世間に知らしめた。

 コンクリートでできた滑走路が今も残る同飛行場跡。かつては紫電改を製造する川西航空機(現・新明和工業)の組立工場もあり、試験飛行が行われていた。模型は加西市が総工費約1500万円で制作し、6月から原則第1、3日曜に一般公開している。

 上谷さんが紫電改にのめり込んだきっかけは96年ごろ、川西航空機の工場関係者との出会いだった。市内の自宅を訪ねると、当時のことを熱く語り、製造記録を記したノートを譲ってくれた。いつどんな作業をしたのか。紫電改の前身「紫電」も含めた情報が2冊にわたって鉛筆でびっしりと埋められていた。

 それから、工員や設計担当者ら当時の関係者に会っては聞き取りをした。頭にあったのは「この人たちの歴史を残しておきたい」との強い思いだ。「彼らはエンジンの音が(米軍機の)グラマンとは全然違って、米国に勝てると思っていた、と語った。徹夜を重ね、加西で最高の飛行機を造っていたことを広く知ってほしかった」と振り返る。

 2002年3月、上谷さんら保存会は、紫電改にまつわる記録を冊子にまとめた。だが、実物大模型制作への思いもずっと抱えていた。国内で実物があるのは、愛媛県愛南町で展示されている1機だけ。「鶉野には当時の滑走路がある。そこに実物大の模型があれば、リアルに当時の歴史を、戦争を感じられるはず」。そう確信していた。

 市が同飛行場跡一帯を戦争遺産として整備し、ミュージアムを建設する計画を聞いたとき「ぜひ実物大模型を」と提案。全国への情報発信を考えていた市の賛同を得た。東京の防衛省防衛研究所で紫電改の取扱説明書を探し出すなどし、これまで集めた情報や知識の全てを制作会社に提供した。

 5月、完成品がトラック3台に分けて運び込まれ、紫電改の模型が組み立てられた。全長約9メートル、幅約12メートル。「本物そっくりの立派なものができた」。胸に熱い思いがこみ上げた。

 2年かけて出来上がった紫電改のレプリカ。平和学習などへの活用も期待される中、上谷さんはもう一つの事実を強調する。この戦闘機でパイロット約160人が命を落としたことだ。

 「いくらいい飛行機を造っても、相手を攻撃して自分もやられるのが戦争。多くの犠牲の上に今の平和があるということを忘れないでほしい」(森 信弘)

     ◇

 加西市が制作した旧日本海軍の戦闘機「紫電改」の実物大模型を一目見ようと、6月の公開後、多くの人が鶉野飛行場跡を訪れている。レプリカ制作に尽力した人や、戦争の記憶を受け継ぐ人らはそこに何を託すのか。3人に思いを聞いた。

【紫電改】太平洋戦争末期、西宮市に本社を置く川西航空機(現・新明和工業)が製造し、旧日本海軍の切り札と期待された局地戦闘機。スピードや上昇力に優れ、本土の防空に活躍した。終戦が近い1945年3月には、松山市上空で米軍機57機を撃墜し、味方の損害は13機という大戦果を挙げたという。しかし、生産は約400機にとどまり戦局を変えるには至らなかった。鶉野組立工場では、46機を組み立てたという記録がある。

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