阪神

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戦時中に持ち歩いたアルバムをめくりながら、当時を思い返す淀川トシ子さん=尼崎市
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戦時中に持ち歩いたアルバムをめくりながら、当時を思い返す淀川トシ子さん=尼崎市
機銃掃射の痕が残る旧開明小学校の塀。74年前の記憶をとどめる=尼崎市開明町2
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機銃掃射の痕が残る旧開明小学校の塀。74年前の記憶をとどめる=尼崎市開明町2

 「ヒュー、バンッ」

 音がなる空を見上げると、雨のように焼夷弾が降ってくる。昼間のはずなのに、煙のせいか辺りは夜のように真っ暗。家族写真を収めたアルバムを斜めがけのかばんに入れて、無我夢中で走った。周りの家は火を上げて燃えていた。

 1945(昭和20)年6月1日の尼崎空襲。大阪市内を標的とした焼夷弾空襲だったが、予定コースをそれて兵庫県尼崎市内に投弾する爆撃機も多く、市の南東部に大きな被害が及んだ。

 当時19歳だった尼崎市の淀川トシ子さん(93)は、市内の製鋼会社に勤めていた。昼に空襲警報が響き、頭上を爆撃機B29が何機も通り過ぎた。会社の指示で自宅に戻ると、家族は誰もいない。焼夷弾が落ちる音だけで、どこからも人の声が聞こえない。

 家族で避難場所として決めていた広場へ向かう途中、同級生と一緒に逃げた。近くの学校の物置に身を隠していると、数メートル先で焼夷弾が落ちて爆発した。「もう、生きている心地がしなかった」

 この空襲を境に、戦況は一段と厳しくなった。夜間も頻繁に空襲警報が鳴り響き、眠れない日が続いた。2週間後の6月15日の空襲では、仕事先から自宅に戻ると、家はかまどを残して跡形なく焼けて灰になっていた。家族全員が無事だったのが、唯一の救いだった。

 その日の夕方、親族の家に身を寄せていると、ごう音とともに米軍の戦闘機グラマンが頭の上を低空飛行した。見上げると、機銃を持った米軍兵士の顔が見えた。目が合ったように思えて、とっさに身を隠した。「早く戦争が終わってほしい」。口に出して言えなかったが、そう願わずにはいられなかった。

     ◆

 阪神出屋敷駅前で生まれ育った浮田好江さん(88)=尼崎市=は体が弱く、学徒動員には行けず、空襲の度に幼い弟を背負って逃げた。「夏の暑い日。空襲警報が鳴って逃げていたら、目の前で焼夷弾に当たって脚が飛んでしまった人がいて」。そう話すと声を詰まらせた。「若いお嬢さんやったのに、助けることすらできなかった」

 6月1日は空襲直後、仕事で被害がひどかった大阪へ向かった。「地下鉄には丸焼けの死体がごろごろと転がっていて。それはそれは悲惨やった」。74年たってもその光景は脳裏に焼き付いて離れない。

 戦場に赴いた兄2人は、フィリピン・ルソン島と、ニューギニア島で戦死した。「紙切れ(召集令状)1枚で、『万歳万歳』って言うて戦争に向かって。でも、もう二度と帰ってこられない。こんなことありますか? 地獄の底を見ましたよ」(斉藤絵美)

◇戦争を知らない若者へ 怖さをわかって◇

 近所の家のラジオで終戦を知らせる玉音放送を聞いたとき、ホッとした。これで戦争が終わったんや、って。悔しいなんて思わなかった。でも、そのために死んだ人は何やったのか。

 戦争の経験を自分の子どもに伝えても、いつも何だか人ごとのよう。戦争を体験してへん人は、本当の怖さは分からへんのかな。戦争で何かが治まると思ってるんとちゃいますか?

 戦争に賛成する国民なんていますか? なのに、自衛隊が海外で活動できるようになって、戦争に向かうような政治ばかり。私には考えられません。

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