淡路

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古いアルバムをめくり、戦時中を振り返る神阪尭さん=洲本市
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古いアルバムをめくり、戦時中を振り返る神阪尭さん=洲本市
特攻隊員となり、撮影された神阪さんの写真。「遺影のためだったと後で気付いた」という(本人提供)
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特攻隊員となり、撮影された神阪さんの写真。「遺影のためだったと後で気付いた」という(本人提供)
神戸新聞NEXT
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 兵庫県洲本市の神阪尭さん(89)は15歳のとき、台湾で終戦を迎えた。ベニヤ板張りのボート「震洋」で、敵艦に体当たりする任務を背負った特攻隊員だった。死と隣り合わせの日々を過ごした末、出撃することのないまま玉音放送を聞いた。あれから74年。「二度とこんな体験を、子どもらにさせたらあかん」。淡路島内の小中学校で体験を語り、平和の尊さを訴える。(上田勇紀)

 大阪市で生まれ、紡績会社に勤めた父の転勤で台北に移り住んだ。太平洋戦争が始まり、戦況が悪化するなか、1944(昭和19)年、14歳で「海軍飛行予科練習生」に志願した。

 その後、合格通知を受け、台湾北西部の新竹へ。そこで上官が「日本には君らの乗る飛行機は一機もない」と告げた。神阪さんを含め、台湾各地から集まった14~17歳ごろの少年約200人は、体操や運動ばかりさせられたという。

 ある日、上官が言った。「20人、特攻隊員を募集する。希望者は申し出てくれ」。特攻は死を意味した。「まだ若すぎる」。神阪さんは行かなかった。ところが後日、上官が告げた言葉に耳を疑う。「全員応募してもらい、ありがとう」。何も言えないまま名前が呼ばれ、神阪さんは20人に選ばれた。

 隊員は写真を撮られ、1泊2日で自宅に帰ることを許された。台北の家で両親に会ったが、特攻隊員になったことは口外できなかった。「心の中で『お世話になりました』とあいさつした。おふくろは気が付いて、私が敵艦にぶつかる夢を何度も見たらしい」

 短い休暇を終え、神阪さんら隊員は台湾北部・淡水へ移った。

    ◇  ◆

 米軍は45年3月、沖縄・慶良間諸島に上陸。民間人を含めて20万人以上が犠牲になったとされる沖縄戦が、激しさを増していく。淡水に配置された特攻隊の役割は、沖縄へ向かう敵艦を途中で沈めることだったという。だが、使う「震洋」はベニヤ板張りで、全長約5メートルのモーターボート。250キロほどの爆薬を乗せて1人で搭乗するものだった。

 「横から見ると、カエルがぴょんぴょん跳ねているようなボートやった。米軍が撃てば簡単にやられてしまう。それで『夜間攻撃をやれ』ということになって、訓練は夜ばかり。明かりが付いた隊長の船について行った」

 記憶では2度、出撃待機命令が下された。いずれも直前になって解除になった。「なぜか死ぬというふうには思わんかった。命令が出ても、どこか人ごとみたいな感じで、実感がなかった」。死を目前に15歳の少年は不思議と冷静だった。

    ◆  ◇

 8月15日。「重大な放送がある」と集合が掛かった。雑音で途切れ途切れだったが、「忍び難きを忍び」という言葉が耳に入った。「玉砕はあっても、降伏は絶対ないと思っていた。これからどうなるんか」。不安がこみ上げた。

 自宅に帰され、翌46年、家族と台湾・基隆から船で広島・大竹へ。神阪さんは大阪で就職し、銀行員として働いた。戦後30年たったころ、淡水を訪れたが、基地の跡形はなく、公園のような風景が広がっていた。

 退職後の99年に淡路島に移り住み、妻と2人で暮らす。小中学校での講演は10年ほど前から続け、特攻隊として過ごした体験を伝えている。

 74年たった今、当時を振り返って強く思う。「本人の意思も無関係に、命が軽く扱われた。生命の尊重も何もなかった」。近年の政治や国際情勢には危ぐを覚える。「あの時代、戦争反対という当たり前のことが言えんかった。そんな時代に、戻らんようにしなければ」

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