明石

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松山海軍航空隊予科練での行進訓練(伊原さん提供)
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松山海軍航空隊予科練での行進訓練(伊原さん提供)
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 1945(昭和20)年6月、沖縄で組織的な戦闘が終わった。「本土決戦」「一億玉砕」が現実味を帯びていた。

 米軍のB29爆撃機による空襲は、東京など大都市だけでなく、地方都市にも拡大していた。

 伊原昭(92)=兵庫県明石市=は7月、18歳になった。迎撃用ロケット戦闘機「秋水」は試験発射の報にとどまり、終戦の8月15日まで伊原たちに届くことはなかった。

 「戦闘機がない上に、操縦士が少のうなったんで、ワシらを避難させたんやと思います」

 終戦の数日前、霞ケ浦海軍航空隊から北海道の千歳海軍航空隊美幌分遣隊に移った。

 「ワシは玉音放送を聞いとりません。戦友が教えてくれました。『えー、負けちゃったの』って感じで、信じられんかったです」

 終戦直前、急に上官の姿を見かけなくなった。何をしていいか分からず、飛行訓練を続けた。「特攻隊員は米軍に処刑される」。そんなうわさが飛び交った。

 「そうしよりましたら、厚木に到着したマッカーサーが『兵隊は速やかに故郷に帰れ』と命令した、と新聞で知りました」

 情報を統制され、死を覚悟し続けた日々は8月末、あっけなく幕を閉じた。

   ■   ■   

 あれほど「滅私奉公」を貫き、犠牲となった戦友の敵をとると誓ったのに、悔しさはほとんどなかった。

 米10キロが5円50銭だったと記憶している。数日待てば千円の退職金が得られたが、「命があっただけで十分」とすぐ、故郷に向かう列車に乗った。

 京都で1泊。実家には「あす帰る」とだけ電報を打った。翌日、岡山や四国の戦友と別れ、山陰線の列車に揺られた。

 和田山、養父、八鹿……。但馬に入るまでは淡々とした気持ちだったが、故郷の日高に近づくにつれ、胸の高鳴りがおさえられなくなった。

 神鍋山の見慣れた稜線が見えた。日高の町並みがどんどん近づいてくる。駅には、弟と下級生数人が迎えに来ていた。

 一刻も早く会いたいと、改札口に一番近い客車に乗っていた。ホームに降りる。頬をつねる。痛い。それでも信じられず、ホームの端までぴょんぴょん跳びはねながら、両手を交互に突き上げた。

 「キツネにだまされとるんちゃうか思いましてな。眉毛につばをつけましたんや。異様な行動だったでしょうな。結婚や長男、次男の誕生、マイホームを建てたとき、どれもこれもうれしかった。でも、日高に帰ってきたときほどうれしいことはないですな」

 気付くとホームの端にいた。意気揚々と見送られた同じ場所で、殺し合いから解放された。

 大声で叫んだ。

 「俺は生きとるぞー」

 9月2日。予科練入隊から1年11カ月がたっていた。くしくも日本が降伏文書に調印した日に重なった。

   ■   ■

 松山海軍航空隊など各地の予科練に入った旧制豊岡中の49人は、全員が故郷に生きて戻った。

 ただ、片足を切断したり、戦争のトラウマから自ら命を絶ったりした同級生もいた、という。

 「ワシも故郷に戻ってからは抜け殻でしたな」

 伊原が笑う。帰宅の報告をしたはずだが、両親との会話の記憶はない。嫁いだ姉が次々に実家を訪ね、食事や酒でねぎらってくれたことを覚えている程度だ。

 「軍隊では、レールに乗せられて、脇見もせずに動かされていた。自分の意思で行動でき、お金よりも、名誉よりも、命があることがどれだけ大切かっちゅーことが分かりました」

   ■   ■

 元特攻少年兵の長い物語を聞き終えた今、私にはどうしても聞きたいことがあった。だが、口にしていいのだろうか。迷ったが、覚悟を決めた。

 「伊原さん、戦地で人を殺しましたか?」

 「殺しておりません」

 私は続けた。

 「人を殺さなくてほっとしましたか」

 「そういうことに思いが至ったことはないですな。戦争は命令通り動かんとあきません。結果的に殺さんですんだだけですわ」

 そして、つぶやいた。

 「普通は人をよーさん殺したら、死刑になりますわな。戦争は逆です。殺せば殺すほど勲章ですやろ。人殺して表彰されるなんて人間のやることちゃいます」

(敬称略)

(藤井伸哉)

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